灘のけんか祭り 千年のあゆみ

「灘のけんかまつり」とは松原八幡神社の秋季例祭の俗称であり、例祭とは毎年行われる祭りのことで、松原八幡神社では、毎年10月14日と15日におこなわれています。

放生会

松原八幡神社の例祭の歴史は古く、中世の地誌「峯相記」(一三四五~一三五二成立)に見えるように、旧暦八月十五日に例祭の原点とも言われている「放生会」が、厳しく執り行われていました。氏子でもあります東山在住の播磨地誌研究家寺脇弘光先生は、「放生会」について次のように述べておられます。

「旧暦八月十五日の祭りといえば、宇佐八幡宮や石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の勅祭でも知られるように、放生会の祭りということになります。

放生会というのは、捕らえられている生き物を解き放って自由にしてやる儀式で、生類保護・殺生禁断の仏教思想と結びついて、全国各地の八幡神社で盛んに行われるようになりました。松原八幡神社の放生会がいつ始まったかということになりますと、その時期は明らかではありませんが、石清水放生会や松原八幡神社の歴史から推察して、おそらく十一世紀から十二世紀にかけてのことと思われます。」

宇佐八幡宮の放生会の起源は、養老三年(七一九)大隈・日向の隼人(九州南部の種族の名)が反乱を起こしたので、八幡神社の八幡大神は託宣(神仏のお告げ)により神官・僧侶と共に行幸され、これを鎮めました。宇佐八幡宮ではこの隼人の霊を慰めるため、天平十六年(七四四)和間浜で「放生会」が行われました。これが全国各地の八幡宮で行われている放生会の起源であるといわれています。

また、石清水八幡宮の「放生会」は、清和天皇の貞観五年(八六三)旧暦八月十五日に石清水放生会と称して始められました。現在においても九月十五日に石清水祭が行われていますが、そのなかで「放生会」が古式に則り厳かに斉行されています。

一方、松原八幡神社の「放生会」は、石清水八幡宮より派生して行われたものと推測できます。松原八幡神社と松原集落の間を放生川と呼んでいたことがあり、この川の名から考えても河口付近で予め捕らえておいた魚介類を解き放つような儀式がおこなわれたようです。

「放生会」から近世の祭りへ

「放生会」から近世江戸時代の祭りへの変遷はどのようであったかについて、前述寺脇先生は
「中世播磨の地誌「峯相記」など各種史料の断片記事から推察して、十四世紀中頃以降は近世江戸時代とほぼ同様の祭りが行われていたものと思われます。ただし、御旅山への神事渡御の行列に壇尻や丹頂、神輿太鼓など氏子たちの自主的な出し物が随行することを認められたのは、それより約百年後の十五世紀中頃、播磨の守護大名赤松政則が松原八幡神社に田地と米二百俵を寄進。喜んだ氏子たちが自主的にその米俵をかついで御旅山に上ったのが最初と言われています。

やがて祭礼への自主的参加を認められ、近世村落の成立した江戸時代に入ると、村ごとに壇尻や屋台を作って祭礼に参加するようになり、喧嘩口論など多発して神社側の統制が思うに任せぬようになりました。」

さらに祭礼日の変遷については
「住古の祭礼日は、旧暦八月十五日(放生会)でしたが、中古の頃、諸般の事情から祭礼日を一か月遅らせて旧暦九月十五日とし、また、新暦(太陽暦)が普及した明治後期(明治四三年)には現在の十月十五日に改めました。」

近世から現代の祭りへ

近世江戸時代の祭礼様式は弦楽を奏し優雅に神事渡御を行うことが主でありましたが、時代は大きく移り変わり、明治維新の際の神仏分離令によって、それまで祭礼を取り仕切っていた八正寺が神社から切り離されたのが、明治三年九月のこととされています。八正寺が切り離され、現行様式の祭礼に移行したのが明治四年から明治五年とされており、以後、氏子主権の「灘まつり」となって、神事渡御の随行的な役割でしかなかった屋台が主役に取って代わり、装飾も年を追うごとに豪華になって祭礼様式も一変をさせ現代にいたっています。

「灘まつりの本質を一言で表現すれば、灘祭りは徹底した氏子本位の祭りである、と言う事です。そして、この、氏子本位の祭りをもたらしたものは何かといえば、灘七村の長い屈折した歴史の重みに耐え、遂にこの祭りを自分たちのものにした氏子たちの執念が表現されている祭りであると思います。」